まいたけを使った自然食!そのレシピや健康に良い理由をご紹介!「今、雪国まいたけが美味しい!」

トップページ >> 雪国まいたけスペシャル情報 >> 雪国まいたけ@ドキュメンタリー >> VOL.2

<<戻る日本古来の食用キノコとして知られるまいたけに、
健康維持・増進に関与する機能成分(MD-フラクション)が存在する


今では知っている人も多いこの事実が広く一般に伝えられたのは、平成4年(1992年)のこと。難波宏影教授を中心とする神戸薬科大学の研究グループが、九州産業大学(福岡県)で開かれた日本薬科学会で発表した内容を、翌日の新聞が社会面に大きく取り上げたからだ。

まいたけの健康維持成分は食べるだけでも有効に摂取できる点が特徴とされるが、その機能成分はかれこれ10年以上も前から注目され続けているようだ。
また、風邪やインフルエンザの季節になると必ずといっていいほどテレビの生活情報番組を賑わす、おいしそうなまいたけ料理の数々。健康ブームともあいまって、健康維持に役立つ美味しい食材としてのまいたけの地位も、近年定着してきているようだ。

だが、雪国まいたけ社長・大平喜信がこのまいたけに着目したのは、もう20年以上も前にさかのぼる。もちろんそれは、まいたけの機能成分(MD-フラクション)に注目が集まることや、健康食材として各種メディアで特集されるような時代がくることを予見したからではなかったのだが・・・。



火がついたチャレンジ精神

「赤ちゃんを育てるよりも難しいかもしれません、声も出さないので」
きのこ栽培について今でもそう話す大平がまいたけの人工栽培をひらめいたのは、昭和57年(1982年)。当時、農業の新しい分野として『栽培きのこ』は浸透し始めていたが、栽培条件が難しいまいたけを対象と考える農家はあまりなかった。
そんな、非常にデリケートなまいたけの人工栽培に成功した企業があった。現在もシイタケ種菌国内トップシェアーを誇る日本有数のキノコ種菌メーカー・森産業だった。昭和49年(1974年)に開発された森産業のまいたけ人工栽培法は、昭和53年(1978年)ごろから一般の農家にも徐々に普及していった。
太もやしに変わる新しい商材を捜し求めていた大平が、真夏のスーパーマーケットで運命的な再会をした1キロ箱のまいたけも、塩沢農協が人工栽培で作ったものだった。

山奥に入って見つけた者にしか味わえなかった貴重なまいたけ。店頭で購入できるようになったとはいえ、まだまだ農家が細々と栽培をしていただけで、事業化に必要な量産技術などは確立されていなかった。それどころか、量産は困難だとさえ言われていた。

難しいなら面白い!難しければ難しいほど、追随する人たちが大変なはず──自称へそ曲がりの大平は、何のためらいもなくまいたけの栽培に取り組みはじめた。

繊細さとの戦い

農真っ先に森産業へと足を運んでまいたけ菌を手に入れ、自宅脇に小さなまいたけ栽培用の建物を建てた。2ヵ月もすれば育ってくるはずだと、従業員を5人も雇った。100坪の栽培工場建設のために銀行から3,000万円の借り入れもしていた。だが、まいたけはいっこうに生長しなかった。

パンフレットどおりにやっている、なのにまいたけは生長しない。大平は森産業に問い合わせてみた。返ってきた答えは「まいたけはデリケートなキノコ、温度・湿度などさまざまな栽培環境変化により成長しなくなってしまうこともあるかもしれず、原因は特定できない」だった。

人件費や原材料費など、まいたけ栽培には毎月100万円ほどかかる。もやし販売による儲けの80万円をつぎ込んでも、収入がゼロだから月々20万円の赤字。追い詰められた危機感と、後戻りは出来ないという使命感、そして三年間の戦いの末成功させた太もやし栽培による自信と信念が、大平を突き動かした。

栽培室にこもり、温度、湿度、光、風などを微妙に変えながら、どういう環境にしたらどういう変化が起きたかをただひたすら観察。そこから仮説を立て、検証をする。この作業を繰り返してまいたけの生理生態を理解していく。これが、大平のやり方だった。

「とにかく、どうなっているんだろう、何故なんだろう、それしかなかったですね」

まいたけ栽培の研究開始から1年、遂にまいたけの培養技術をつかんだ。好奇心と天性のカンの勝利だった。

経験をフル活用し、常に先手を打つ




不今や全国ブランドとなっている『雪国まいたけ』。だが、この社名を決めるにもひと騒動あった。雪国で作ったまいたけなのだから雪国まいたけでいいではないか、と主張する大平に対し、雪国という言葉には暗いイメージがあると言って、親戚や税理士など、周囲の人間はことごとく反対した。

大平には雪国という言葉がマイナスイメージではないという実感があった。中学を卒業したばかりの頃、単身働きに出た都会でホームシックにかかった自分。その時、いつも懐かしく思い出されるのは雪の故郷の情景ばかりだった。
都会から見た雪国は決して暗いイメージではないと確信し、自分の主張を貫き通さなかったとしたら、今頃別の社名になっていたかもしれないという事実は、大平のマーケティングセンスをうかがわせるエピソードだ。

太もやしに挑んだのも、実際に食べてみて美味しかったから。
まいたけに賭けたのも、太もやしの成功が背中を押しをしてくれたから。
雪国まいたけという社名も、自分が都会に出た時に得た感覚を信じたから。

大平のビジネスの核は、全て自らの経験に端を発している。決して絵空事や机上の空論ではない。雪国まいたけという会社を設立する際に考えた、成功のための三つの条件。これらも全て太もやしの経験から得たものだった。

まずは『生産技術』

量産に成功したばかりの今は他の追随を許さない技術だとしても、常に世の中は動いている。独自の技術を開発し続け、時代やニーズに合わせてその技術を改良・向上させ続けることを怠ってはならない。

二つ目は『流通の改革』

相手がスーパーマーケットなどの大口小売業者であっても、直接取引をする。コストダウンを図るには、農協、全農、経済連などは通さない、小売業に直接卸す流通ルートが必須。
従って、価格交渉が対等に行える生産量になるまで、大手スーパーとは取引しない。

最後の一つは『価格決定権を握る』こと

農産物は、需要と供給のバランスで価格が決まってしまう。特に足の早い商品であるまいたけは、買い叩かれる可能性も高い。だから、市場価格の決定権は自らが握らなければならない。

今もってその姿勢を貫き通している大平は言う。

「常に市場の需要を予測し、毎年少しだけまいたけの供給量を過剰気味に調整するんです。たとえば、今年が1キロ1,000円の設定なら、翌年は950円になるように。
全国の価格をコントロールし、毎年右肩下がりで価格を下げていくようにするわけです。価格を上げ、まいたけは利益が出るのが当然という市場になったら、大手企業が何十億という投資をして繰り出してくるでしょう。もし、自分だけ利益を出そうとして高値を維持してきていたら、どんどん新しい企業が参入してきていたでしょう。」

三つの決意を胸に抱き、昭和58年(1983年)7月21日、株式会社雪国まいたけが誕生した。ここから始まる数々の新たなマーケティングストーリーを、この時35歳だった大平には想像できていたのであろうか。

(c)2006 Noriko Obana, YUKIGUNI MAITAKE

CONTENTS MENU

ADDRESS
〒949-6695
新潟県南魚沼市余川89番地

TEL
025-778-0111

ENGLISH