まいたけを使った自然食!そのレシピや健康に良い理由をご紹介!「今、雪国まいたけが美味しい!」

トップページ >> 雪国まいたけスペシャル情報 >> 雪国まいたけ@ドキュメンタリー >> VOL.1

<<戻る徹底的な品質管理、そして鮮度最優先!
完璧主義&理想論者のこだわりと魚沼の水が育てる "きのこ" たち誕生秘話


執筆者:ビジネスコンシェルジュ
    尾花紀子

食欲の秋。ダイエットには大敵な響きだが、四季折々の風情と食文化を楽しむ日本人には一番「オイシイ」季節だ。秋風を肌で感じるようになると、新米で炊いた暖かいご飯に誰もが思いを馳せる。

日本一の米どころとして知られる魚沼で、米たちと同じ水で育つきのこがある。秋の代名詞でもあるきのこの中で最もデリケートだといっても過言ではない、かつては幻のきのことまで言われた 『まいたけ』 だ。この "幻のきのこ" を、既成概念の枠を超えた全く新しい発想で、いつでも低価格で安定供給できるようにしてしまった男がいる。雪国まいたけ社長、大平喜信だった。

スーパーマーケットの野菜コーナーにならぶさまざまなきのこ。その中で、雪国まいたけの 『まいたけ』 はちょっと風変わりな印象を与える。まったく無防備に、「さあ、見てくれ!」と言わんばかりに真っ白い切り口をさらすパッケージ方法で、まいたけの成分が詰まった茎の部分を堂々と見せているのだ。

他のまいたけとの違いは、一目瞭然。これこそが、大平のあくなき品質と鮮度へのこだわりの表れであることは、消費者にはほとんど知られていない。その物語は、30年前にさかのぼる。



たった1つの手がかりから

「関東でラーメン屋などに大変人気のある、太もやしを作ってみないか」
東京に住む叔父からそう言われたのは20代の半ば、それまで勤めていた工場を辞め、家業である兼業農家の生活をしていた時のことだった。貧しい農家の長男として中卒で働き始め、工場勤めの安定収入も封を切らないまま実家に直行するような生活をしていた大平にとって、100万円売り上げれば3分の1、すなわち30万円程度が利益になるという話は、大きな魅力だった。大平は、早速、東京の叔父のところへと向かった。

今は普通に売られている太もやしだが、当時は細長いもやしが当たり前だった時代。ましてや、新潟には太もやしの存在は皆無。食事にと出された太もやしを食べて、その太さからくる歯ごたえと甘みに驚いた。「これだ!新潟でも売れる!!」そう直感した大平は、叔父に製法を聞いた。だが、叔父は仕入れて販売しているにすぎなかった。

関東にもたった2ヶ所しかない太もやしの製造工場。製法は企業秘密と教えてはもらえなかった。唯一知ることのできた情報は、「栽培室でストーブを不完全燃焼する」ということだけ。それでも、大平は太もやし作りに成功している自分を想像して疑わなかった。それから3年間、生きるか死ぬかの試行錯誤することになるのである。

ゼッタイに諦めない

農作物に近い食材を製造するという発想はよかったが、大平の知る太もやし製法は「ストーブの不完全燃焼」だけ。まずは、叔父に普通のもやしの作り方を教わり、実家の裏にあった15坪程度のスペースを改造してもやし工場を作った。これが、雪国まいたけの基礎となる『大平もやし店』だった。
「工夫すれば何でも安くできる」と、散水機などの製造工程に必要な設備をすべて自ら作った。普通のもやしは、手をかけずに作れるようになった。そして、探究心旺盛な大平の太もやし作りが始まった。

「どうしたら安定して太くなるのだろう」

ストーブの芯を調整して燃え方を変えたり、ストーブ本体を取り替えたり、換気を工夫したり、とにかく連日連夜、不完全燃焼のストーブと共にもやしと格闘した。ところが、どれほど実験を繰り返してもうまくいかない。不完全燃焼状態では、もやしは一瞬太くなる。だが、部屋に一酸化炭素が充満してもやしが腐ってしまうのだ。それだけではない。大平自身も一酸化炭素中毒になりそうな状態だった。

それでも、大平はやめなかった。来る日も来る日もストーブを調整し、腐ったり細いままだったりするもやしを作り続けた。売る分まで全て腐ってしまった時には、往復12時間をかけて東京のもやし店から仕入れ、配達したこともあった。太もやしの実験栽培と仕入れと配達。赤字は上塗り状態、食事代にも睡眠時間にも事欠いた。が、決して諦めなかった。

3年目のある日、「酸っぱいような臭いがして、目にしみない。こういう不完全燃焼だと、もやしは腐らない。」とわかった。大平は、安定した太もやし栽培法を自らの手で掴み取ったのだ。

「強い信念を抱き、
 本気になって取り組み続ければ、
 不可能なことはない」

「他には真似のできない
 本物のノウハウを持っていれば、
 絶対に強い」

これは、3年間の太もやし作りから悟った教訓だった。

販売も順調になり、普通のもやしよりも高い利益が得られるようになった頃、長女が小学校に入学した。この年、念願のマイホームを建てた。工場の二階の六畳一間では、家庭訪問の際に娘が辛い思いをするだろうと気遣う、大平の優しい父親としての顔がそこにあった。

まいたけとの再会

不完全燃焼のストーブと格闘の日々が終わり、売れ行きも順調に伸び、安定した生活になりつつあった頃、大平はとんでもない事態に遭遇する。ある機械メーカーが、太もやし製造機を発売してしまったのだ。3年間の苦労の末、成功を味わえたのはたった1年しかなかった。

実は、太もやしを作り出していたのは、不完全燃焼で発生するエチレンガスだった。そのエチレンガスを発生させる機械が、たった50万円で世の中に出回るようになってしまった。いくら「他には真似のできないノウハウ」であっても、機械で人工的に作り出すことができるようになったら、誰でも太もやしが作れるようになる。借金して建てた工場兼自宅、量産されることになるだろう太もやしだけに頼っていられる状態ではなかった。

大平は「太もやしに変わる新しい商材」を探し始めた。探究心の固まりでもある大平の目は、行く先々でさまざまなものを見つめ、考えた。そしてある日、スーパーマーケットの店頭で1キロ箱に入ったまいたけと出逢った。まさに、運命だった。

大平には、親戚が山でみつけたというまいたけを食べた幼い頃の記憶があった。母が薄い醤油味でおすましにしてくれたまいたけは、子ども心に鮮烈に残るほどおいしかった。そしして、母の言った「このきのこはとても高級なものなんだよ」という言葉までが脳裏によみがえった。

季節は真夏だった。この時期に採れる天然のきのこなんて……もちろん、すぐさまスーパーの店員に聞いた。塩沢町農協が作った、人工栽培のまいたけだった。

『人工栽培のまいたけ』──またしても、大平は「これだ!」と思った。
機械の発売後も順調に売れ続けた太もやし、借金も完済した。それでも、安定を硬直と捉え、常に向上を求める大平は、3000万円という大きな借金をし、まいたけ作りに挑むことになる。

昭和58年(1983年)の夏、生家のあった五十沢(いかざわ:八海山のふもと)に100坪のまいたけ栽培工場が完成し、雪国まいたけの歴史の幕が開いた。

(c)2005 Noriko Obana, YUKIGUNI MAITAKE

CONTENTS MENU

ADDRESS
〒949-6695
新潟県南魚沼市余川89番地

TEL
025-778-0111

ENGLISH